研ナオコ と中島みゆき

 研ナオコ の 基本データ


名前(職業) 研ナオコ (歌手・タレント・女優)
生年月日 1953年7月7日 ― 
概要 1971年 歌手としてデビュー
1975年 「愚図」がヒットする
1976年 中島みゆきの初の提供作品となる「LA-LA-LA」「雨が空を捨てる日は」の提供を受ける
      中島みゆき提供の「あばよ」が大ヒットする
1977年 大麻所持で逮捕され、芸能活動を一時休止
1978年 中島みゆき提供の「かもめはかもめ」が大ヒットする
1987年 結婚 

現在に至るまで 中島みゆきの曲の提供を多数受け、あるいはカバーしている。
テレビ等で中島みゆきの曲を披露することも多い

   研ナオコ と 中島みゆき

仕事上の接点 提供曲:「LA-LA-LA」「雨が空を捨てる日は」(1976.06.25)
     「あばよ」「強がりはよせヨ」「明日靴がかわいたら」「わすれ鳥のうた」(1976.08.25)
     「かもめはかもめ」「ふられた気分」「はぐれ鳥」「さよならを伝えて」「杏村から」(1977.10.25)
     「窓ガラス」(1978.07.10)
     「みにくいアヒルの子」「こぬか雨」(1978.10.05)
     「ひとりぼっちで踊らせて」(1979.08.21)
*他にカバーアルバム「NAOKO VS MIYUKI(研ナオコ、中島みゆきを唄う)」など
エッセイ/メッセージ 『魔女の辞典』
研ナオコ :本当は美人なのに、不美人に映ってみせるという特殊技術を持った人。
徳光 みのの人生賛歌  感動の名曲大全集 1997年3月29日放送
24時間テレビ 日本テレビ 2001年8月19日放送
たけしの誰でもピカソ! 2007年2月9日放送
対談/共演 月刊明星1977年1月号
研  「最初はあまりしゃべらなかったし、なんかコワイ感じの人だなって思ったよ」
中島 「アタシが着いた時には、もうレコーディングが始まっていて、白い服着て歌ってた。
    キレイだな、と冗談じゃなく思ったな、ホント」
研  「自分の「あばよ」と、みゆきちゃんの「あばよ」を、テープにとって聴きくらべると、もうドキッ!だね。
    どうしてこんなに違うのか、って思っちゃって」
中島 「でも、ナオコちゃんのを家でひとり聴いてたら、もうほんとに泣けちゃった。
    あなたの表現力、スゴイヨォ」 
コッキーポップ(テレビ)1977年4月3日放送
コメント 月刊明星(付録)1976年11月号
(研ナオコのLP「泣き笑い」(A面全曲中島みゆきの提供曲)について)
Q : 人の曲を書くのってムズカしい?
中島:「あのLPには、自分が持ってた曲ばっかし選んだから、とくに感じなかったみたいね。
    でも、あらためて‘この人のために書いてください’なんて言われても出てこないだろうなあ。
    やっぱしムズカしいでしょうね」
フクニチスポーツ1976年11月7日付
「研ナオコと、アタシの生きざまが、ある面でオーバーラップするところがあったから、
 初めてヒトさまの曲を作ったの、音楽の方法論も知らないのに、八方破れで作った曲を
 ヒトさまに歌ってもらうなんて、気の毒じゃない」
週刊明星1976年12月19日号
(研ナオコと似ていると思わないか?)
「‘オレは美人しか撮らない’‘だからフィルムは入ってない’っていう、
 あのカメラのテレビCMを見たとき、いいなぁと思ったのよ。
 女のコなら誰だって、あんな顔でバカ笑いしたくないはずなのに、
 あのヒトはピエロになり切ってる。それを同じ振幅でハネ返って来るのは、
 ひとりぼっちの女のサビシサ。私にはそれがよくわかるのよォ」
(「あばよ」について)
「私自身のことを書いたのよ。器用じゃないから、フィクションは歌にできないの。
 自分の体験、自分の気持ち、いつでもそれが出ちゃう」
(研ナオコの紅白出場について)
「ナオコちゃんと会ってから、ヘンクツだった私が素直になったみたい。
 大みそかはいつも、お正月の支度でバタバタするんだけど、今年はゆっくり‘紅白’を見たいナ」
月刊平凡1977年1月号
(「あばよ」の提供について、)
「あんなに笑いころげるナオコさんって、同じように寂しいところもある人だなって思い、
 泣き笑いでいこうと考えたの」
「ナオコのうたう「あばよ」をきいて、はじめて名曲って思い部屋で14回もきいちゃった」
GuItar Life1977年1月号
(研ナオコへの曲提供は研ナオコのイメージの中から作ったのか?)
「私の場合、技術的にタレントさん見て、合わせて書いてあげることができません。
 私は私のこととしてしか書けないし、ナオコの場合は、
 彼女と私の性格がオーバーラップする部分が大きかったというのが幸運だったと思うの。」
新譜ジャーナル 1977年2月号
(1976年について)
「(前略)おかげさまで、研ナオコさんとのめぐり逢いから、作家としても、世に認めていただいて、
 とても素晴らしい一年になりました。(後略)」
ヤングレディ1977年2月8日号
「ナオコと知り合ったのが大きな出来事のような気がするの。彼女すごく素直でしょ。
 泣きたいとき、笑いたいとき、それをそのまま表しちゃう。私って意固地でしょ。
 でも、彼女に影響されて、少しやわらかくなったみたい。
 今、恋をしているの。また片想いに終わるかもしれないけれど・・・」
週刊文春1977年2月10日号
「私もどうせ曲を作るんだったらナオコちゃんのでなくてかわいい男の子のやりたかったわよ」
*二人が談笑する写真に付せられたキャプション
週刊女性1977年2月15日号
(「LA-LA-LA」と「あばよ」では、「あばよ」の方が先に作られたことについて)
「夏の暑いさかりに、「あばよ」でもあるまい」(と先に「LA-LA-LA」が発売された)
「ちょうど、ナオコが‘だからフィルムははいってない’っていう愛川欽也とのコマーシャルで
 ‘ガははは’って笑いをふりまいた頃でしょう、私、思ったんですよヨ。女の子で、歌手で、いい洋服着て、
 のどの奥まで見せて笑える…
 あの陽性の振子持ってるひとだから、その振子が反対にきたとき、きっと素晴らしいものが出せるだろうって。
 それに、初対面の田辺さんに‘君、自分でナオコに似てるとこあると思わない?’って、いわれたの、
 とても刺激になりましたね。
 「あばよ」は、彼女が私を引っぱって、書かせてくれたようなもんです。
 彼女のために書いたけど、私のためでもあったんですネ。彼女だけでも、私だけでもできなかったでしょう。
 あの頃、私、いろんなひとの影響うけていたから・・・
 君、変わってるネといわれて、‘そう’って答えちゃったら、あとなにが残るかなんて考えたり。
 「あばよ」は、伝統的な歌謡曲の手法をふまえていないだけに、うたいやすい、楽な歌だと思いますけどネ。
 「あばよ」の女?ドジとしかいいようがないですねエ」
Guts1977年3月号
(地の文)
・「LA-LA-LA」のシングル盤が出来上がったときもレコードを持って放送局を回った。
 休暇で、札幌の自宅に帰っている時のことだ。
・「あばよ」ヒット記念パーティーでは、彼女に抱きつくようにして泣いていた研ナオコの、肩をたたいたり、
 髪をなでたりしてあげる光景が見られた。
「研さんとは性格が似ている」
「テレビのCMに出て、大笑いするのを見た時、似てるなと思った。
 誰だって、人前であんな顔したくないでしょ。でもやってみせる。笑い終わった時の顔まで写さなかったけど、
 その見えない部分の顔が気になってた」
サラリーマン1977年4月15日号
(研ナオコへの曲提供について)
「研ナオコさんは大先輩。歌っていただいただけでも光栄です。」
月刊エレクトーン1977年5月号
(「あばよ」について)
「すごく乱暴なつくり方をしているので、研ナオコさんも、歌い始めの頃はとても苦労したんです。
 たとえば、ブレスとか・・・。」
「レコーディングの時に立ち会ったんですけど、ナオコさんに、
 「すみませ〜ん、息をするところがないんですけれど」なんて言われちゃって・・・
 だから「あ、どっか適当なところにつくってください」なっていったら、
 例の調子でナオコさん「はぁ〜い」だって・・・(笑)」
For Life 1977年5月号
(曲提供について)
「(前略)ナオコの場合も、ナオコの会社の田辺社長に紹介されてから個人的に会ったりして、
 しばらくして曲を作ったし…」
ヤングギター1978年1月号
(研ナオコへの提供曲「LA-LA-LA」「あばよ」は「提供曲」として書いたのか?)
中島 うん。たのまれてから書いたけどね。でも、彼女にあわせてってのはできないんだよね。
    作曲法とかきちんと知らないし、音程とかを歌う人に合わせるなんてね。
    あくまでも乱暴な作り方をしてるから、合わせて作るなんてまで知恵がまわらないのよね。
    だから、半分ぐらいは彼女がいたから書けた。彼女があたしの歌をひっぱり出したってことだと思うね。
    あたしはあたしのこととして書いたつもりだけど、でもそこに彼女がいて、それが引っぱってるって感じね。
    だから、彼女が歌わなきゃ話にならない。
(あなたが歌うわけにはいかないということか?)
中島 うん、彼女がうたわなきゃ半分になっちゃうね。
(あの歌はいいね)
中島 それは、彼女の力だと思う、ある意味で。彼女のなかにあたしと似たような部分があるんじゃないかって、
    ギクッとした時にできた曲だからね。
(あなたと研ナオコは似てますね)
中島 うん、やっぱり似てるとおもうよ。あたしもね。この曲をたのまれる以前に、
    テレビのCMに出ている彼女を見てて、カメラのCMで彼女ものすごい笑い顔見せてたでしょ。
    あれ、見た時、あたしたまんないなって気がしたのよ。
(どういうふうに)
中島 だって、化粧してね、前の晩からパックしてさ、キレイに口紅ぬっていい服着てさ、
    すくなくとも彼女は歌手でしょ。あんな笑い方したくないと思うのよ。だれだって女の子は。
    でもさ、彼女めいっぱい口あけて笑ってるじゃない。奥歯が見えるくらいさ。
    コメディアンじゃないけどやってるじゃない。てことはさ、
    それだけ同じ振幅でハネ返ってくるものってのがすごいだろうなって思ったの。
    陽性になった部分と、みかえりの陰性の部分てのがあるだろうなっておもったの。
    ゼッタイ陽性になりっぱなしじゃないって。
    だから、彼女がワァーって笑うたびにズキンてくるわけよ、見ててね。

中島 で、彼女とあとで会って話してみると、彼女が自分から言いだした部分でね。
    人によくアナタって面白い人ねっていわれると、でも面白い人ねっていわれて、
    アラ私だってそうじゃない時だってあるのよって言えたら、私もらくだったって。
    でも自分の性格的部分でね、アナタって面白い人ねっていわれて、
    そうアタシって面白いのってケラケラケラ笑っていつでもすませちゃったって。
    そこまでしか彼女も言わなかったけどね。
    でも、その言わなかった部分てのがさ、あたしにはズキッとくるわけだ。
    そういう部分てのはあたしにもあるし、きっと誰にでもあると思うけどね。
    あたしにしても変わった女ねとか、面白い女ねとかいわれるし、
    誰だってそりゃー一面しかないわけじゃないしね。
    でもさ、それをうまく弁解できる人と、しきれない人ってのがいるじゃない。
    そうすると、彼女なんか見ているのがたまんないって思うのね。

中島 で、そういうことについてはおたがい議論したくないのね、ナオコとはね。
    イヤな部分についてね、おたがいキズ口に手をつっこんで言いたくないのよね。
    だから、それをくみとって歌ってくれればいいんじゃないかって。
    それが彼女の歌い方になるんだし、それが、彼女があたしから引っぱりだしたものなんじゃないかな。
 
週刊明星1978年6月18日号
(最近「かもめ」を題材にした曲がはやっていることについて、「かもめはかもめ」を研ナオコに提供した中島みゆきも取材を受ける)
「あの、悪いんですけど‘最近’とおっしゃいますが、
 あの曲はナオコちゃんが昨年だしたLP『かもめのように』からのシングル・カットなんです。
 ですから作ったのは昨年、‘最近’ではないんですけど……」
「ただ、カモメが空をのんびり飛んでる姿はカッコいいし、とても好きな鳥なんです。
 でも、カモメの歌は昔からあるでしょ」
虹色望心鏡1979年5月25日刊
―じゃあ、今まで人に書いた曲で何が一番好き?好きっていうか、自分らしさっていうか、
  これは一番自分の部分で相手がうまくやってくれたみたいな。
「そうですねえ。「あばよ」なんかは本当に彼女が自分のものにしてくれたし、あと自分自身で好きなというと、
 全然表には出てこなかったけど、「わらわせるじゃないか」とか「強がりはよせヨ」とか。」
女性セブン1984年5月3日号
(研ナオコに曲を提供したことについて)
「陽性の振子を持ってるひとだから、その振子が反対にきたらきっと素晴らしいものが出るだろう」
月刊カドカワ1991年11月号
(研ナオコに曲を提供したことについて)
「曲提供は、その人とディレクターが同じとか友だちとか、身内が多いのが私のパターンです」
The ALFEE BOOK Long WAY TO FREEDOMvol.5 2002年4月10日刊
THE ALFEEとはお付き合い…というよりも、お世話になりました。研ナオコさんに提供した楽曲が、
アルフィーの演奏でレコーディングされていたという、今から思えば夢のような贅沢な出来事でございました。
研ナオコさんとのお仕事のときには、直接アルフィーの皆様にお目にかかってはおりませんでした。(後略)
坂崎幸之助とJ-POP Friends 1 2008年10月30日刊
(前略)
坂崎 ぼくは、中島みゆきさんの曲は、研ナオコさんのバックをやっていたころに、
    よぉーく弾かしていただきましたけど。
中島 ねぇー!研ナオコさんて豪華よねえ!
(中略)
坂崎 でも「あばよ」とかは、ナオコさんのためにつくったんですか?
中島 そうです。わたしお会いしたことなくて、「そんな…」でも(田辺エージェンシーの田辺昭知社長の)
    「書けるぅー・・・」で(笑)。
坂崎 「書けるぅー・・・」(笑)。ナオコさんに一番最初に書いたのは「LA-LA-LA」(76年)なんですよね。
中島 そうです。
(後略)