自由研究 No.10

比較検証 「バードランドサーカス」と「この空を飛べたら」

最終回 「鵙は何処へ行った」と「この空を飛べたら」

【はじめに】

1989年11月から雑誌「03」で連載された小説「バードランドサーカス」は、
1991年10月に「この空を飛べたら」として、単行本化されました。
変わったのはタイトルだけではなく、ストーリー、個々の文章表現にも多くの変更が加えられています。
両者を比較する事で、みゆきさんの創作過程や言語感覚が浮き彫りになるのではないでしょうか?

使用する資料
 
  • 雑誌「03」(ゼロサン)1990年12月号
  • 単行本「この空を飛べたら」(初版 1991年10月9日発行)

 「鵙は何処へ行った」 ストーリーの概略

 
 【第1場面】
 登場人物:青木京子(「鴉」の主人公) 京子の母 ホームレスの老女(「寒雀」の主人公)
        通行人数名 通りすがりの医師
 *独白調ではなく、作者の視点からストーリーは進行

  • 雨上がりの早朝、青木京子は家を出る。母は特に何も問いつめない。
  • 青木京子は、学校に行く前に倉橋圭(「チャボを飼ってみな」の主人公)のバイト先のピザ屋を覗く
  • ピザ屋はまだ閉まっている
  • 青木京子はやがて近くのゴミ山の中に倒れているホームレスの老女を見つける
  • 青木京子は救急車を呼ぼうと周囲の通行人に声をかけるが無視される

満員のバスの中で、たくさんの顔が窓の外を向いていた。何人かはあの老女を見ただろう。
何人かは何も見ずに目を開いているだけだろう。
彼等
は心の中で、たったひとつの同じ言葉で共鳴し合っているようだ。

 ――カンケーナイ

 急ぎ足が朝の舗道に少しずつ増えて、街にはそのキーワードが増幅してゆく。

 ――カンケーナイ

 ――カンケーナイ

 だけど私たちは、自分ではそうと知らぬままに誰かを傷つけたり救ったりしていることって、
 ないのだろうか。私たちは束の間の情景に閉じ込められて暮らすだけだけれど、
 何処か遠い所から見てみれば、意外とカンケーナクナイことって、ないのだろうか。

 みんな、そんなことにまで気を回していたら疲れてしまうのだろうか。

 ――カンケーナイ

 ――カンケーナイ

 不気味に静かに共鳴し合う客を積んで、バスがまた一台走り去る。

  • 最後に通りすがりの医者が登場し、青木京子の元に助けに向かうところで場面が終わる
二人のほうへしっかりとした声をかけながら、
男は大股で近くの横断歩道へ向かって走り出した。

「そこで、動かさずに待ってください。私は医者です」


【第2場面】
登場人物:婦長 刑事 
*婦長と刑事の会話によってストーリーは進行(両名の心理描写はなし)

  • 冒頭で救急病院に搬送されたホームレスの老女の死が記される
所持していた薬ビンには(中略)その中には六種類、十五錠の睡眠剤が入っており、
 これを大量に飲んだものと思われる。

 (中略)開腹手術を行なったところ、子宮頸部及び体部、結腸、直腸に末期癌。結腸が穿孔。

 午前十時七分、死亡。解剖により、肺、肝臓への癌の転移がみとめられた。

 住所、氏名、年齢不詳。

  • 刑事は事件性を疑い、睡眠薬を落とした者(=鵙)を想定する。
刑事「(中略)婦長さん、鵙っていう鳥を御存じですか」

(中略)

刑事「(中略)獲物の虫だのカエルだのを、枝の先や鉄条網の棘に串刺しにしておいて、
   食うのを忘れて何処かへ飛んで行っちまう。

   この街には、どうやら頭の黒いデカイ鵙がいるんですよ」

  • 婦長は、どの人間にも「鵙」の部分があることを指摘する
婦長「忘れるという方法で隠れているなら、私だって人を何の意識もなく傷つけてること、
 あるかもしれません。いえ、きっとあると思います。
 他人の痛みを、私たちは一番最初に置き去りにしてゆくものです」
  • 刑事は話を切り替え、発見者である青木京子への疑いを述べる
刑事「(中略)あの女子高生ね、発見者の。あの子、何かおかしくないですか」

 (中略)

刑事「(中略)K女子高の制服を着てるくせに、本人は『学校はやめた』などと言うんですな。
   で、いつからかと訊くと『今から』だと言う。出まかせですよ。
(中略)」

  • 婦長は、刑事の人を疑う態度にも「鵙」の存在を指摘する
  • 刑事は、人を「鵙」にさせる、より大きな「鵙」について語る
刑事「(中略)私をそんな風にさせてしまう鵙って奴がいる、ってことですよ。
 さしずめ、こんな鵙を作るおおもとの鵙は何処へ行ったんでしょうな」

婦長「……鵙は、特にこういう街では多いかもしれません。
   傷つけるつもりさえもなく人を傷つけては片っぱしから忘れてゆく、
   恐ろしいものが確かに、この世の冬には増えてゆくのかもしれません。
   枝は、贄で溢れるでしょう。

  • 婦長は、「鵙の声」について語り、話は終わる。

婦長「……異民族のね、何を話しているのかさっぱり意味の通じない言葉をさして、
  『鵙の声』と呼んだのだそうですよ。

  あなたは、みんな同じはずの私たちというものの中から、鵙の声を聞き出そうとなさる。

  けれど私たちはお互いに全てが異民族です。

  それを認めてしまうのはとても淋しいことですけれど、
  それを認識してやっと人は人を愛することができるのではないでしょうか」

刑事「私には……宗教はわからんです」

婦長「いいえ。宗教という護符に閉ざされた観念の城壁をもってさえ遮ることのできない、
   吹きさらしの場所で、鵙の中の人間は鵙の中の人間に会うのだと思います」

刑事「人間の中の鵙に」

婦長「……鵙の中の人間に、ではないでしょうか」


「鵙は何処へ行った」と「この空を飛べたら」の相違点


以下、「鵙は何処へ行った」(以下、「鵙」)と「この空を飛べたら」(以下、「この空」)の主な相違点を列挙してみます。

  • 時間設定:「鵙」はホームレスの老女の発見からその死まで。「この空」はホームレスの老女の発見からその救助の直前まで
  • 登場人物:「鵙」は婦長と刑事の二人が軸、倉橋圭は登場せず。「この空」は青木京子と倉橋圭の二人が軸。刑事と婦長は登場せず。
  • 表現方法:「鵙」は婦長と刑事の問答体が軸。「この空」は青木京子と倉橋圭の両者の視点を上下2段の同時進行で表現。
  • ホームレスの老女:「鵙」はその死を明記。「この空」は生死不明。



私的考察


以下、いくつかの項目について、私的考察を進めていきます。

  • 「鵙の声」とは?
 以前、中島みゆき検定のネタにもしましたが、婦長の話す「鵙の声」の比喩の原典は
 「孟子」騰文公章句上にある「南蛮鵙舌」という語にあります。
 これは孟子が当時の諸子百家の一つ農家の許行を非難する言葉の一節です。
 鵙は多様な鳴き声をするところから、「百舌鳥」と表記されることもありますが、
 「鵙舌」の表現もまた、そうしたモズの鳴き声を「意味の通じない言葉」として捉えたものだと考えられます。
  • 「バードランドサーカス」とは?
 雑誌「03」に連載されていた当時の題名「バードランドサーカス」、
 この題名のうち「バードランド」は、小説の各編が鳥を題材にとっているところに由来していると考えられます。
 では「サーカス」とはなんなのか?
 私はいわゆる「サーカス団」の「サーカス」ではないと考えます。
そうではなくて
 「ピカデリーサーカス」のような円形広場という意味での「サーカス」
 あるいは
 その原意となった「円」や「輪」という意味のcircus だと考えています。

 この短編集の舞台はすべて、ある町の一角、PARCOの前の交差点とその周辺に限定されています。
 そこを行き交う人々(=鳥)のそれぞれが
 他人に理解されない孤独な思い(鵙の鳴き声)を吐露する。
 しかし、実はそれぞれの話の主人公たちは本人も気づかないところで
 他の主人公たちとつながり、影響を与え合っていく
 その中で主人公たちは孤独を抜け出そうというきっかけや願いを持つようになる
 つまり「この空を飛べたら」と願うようになる。それがこの短編集の話の軸だと思います。
 そうした孤独な人間のつながりという意味も含めて
 最初は「バードランドサーカス」という題名になったのではないでしょうか?
 
  • 「この空を飛べたら」ではホームレスの老女は助かったのか?
 「鵙は何処へ行った」ではその死亡が記されたホームレスの老女、
 「この空を飛べたら」では倉橋圭の呼んだ救急車によって搬送されたと推測されます。
 この時の倉橋圭の行動は彼の人生にとって転機となる決断であり、
 その点で「この空を飛べたら」は「鵙は何処へ行った」よりも希望を感じさせる結末となっています。
 
 それでは、「この空を飛べたら」ではホームレスの老女は助かったのでしょうか?
 私は、やはりホームレスの老女は死んだのだと思います。
 単行本「この空を飛べたら」の帯には次のような文句が書かれています。
 「街で起きることには 何でも原因があるって思うかい? 
 だけど、世の中には 誰のせいでもないのに、人が死ぬってこともあるのさ
 それを単なる偶然だと 言ってしまっていいかどうか……」
 興味深いことにこのカッコ書きの文は「バードランドサーカス」にも
 単行本「この空を飛べたら」本文にもないオリジナルの文なのです。

 
 そこから私は、
 この文は単行本「この空を飛べたら」の序文とも言うべき文だと考えているのですが、
 ここに書かれている「誰のせいでもないのに、人が死ぬ」ということは
 「寒雀」のホームレスの老女の死をさしていると考えるのが妥当だと思います。

  • なぜ「鵙は何処へ行った」から「この空を飛べたら」へ改稿したのか?

 「バードランドサーカス」が雑誌「03」に掲載されていた1989年から90年にかけて
 みゆきさんは「ミュージックスクエア」のDJを務めていました。
 その1990年11月16日の放送の最後で興味深い発言をしています。
 
 (前略)(Boz Scaggsの)‘We're All Alone’をおかけしたというのは、
「どうせみんなひとりぼっちだから」というのが、私としては結論というふうに…
それはありますけれどね。ひとりですけれどもね。
そこで止まって欲しくないという思いして。
(中略)
私がこの間中、一年間ほど小説を連載、とある雑誌で連載していたのがありましてね、
この間、最終章で終わったんですけれども。
その中で、いずれまた単行本になると思いますから、今その予定が進んでいるので、
(中略)
「バードランドサーカス」ていうのあるんですけど、
その最終章で病院の看護婦さんの婦長さんがいう言葉を、
多少の文字の違いはあるけれど、紹介しておきますので、
この「We're All Alone」の意味を私はこう思っていたんだ、
というのを聞いてもらったらと思います。
婦長がこのように言います。
私たちは互いが異民族です。

それを認めてしまうことはとても淋しいことですけれど、
それを認めて初めて人は人を愛することができるのではないでしょうか


この発言から次のようなことが推測できると思います。
 ・ 「鵙は何処へ行った」の原稿が完成してからおそらく一ヶ月以上経過した段階、
   単行本化の話が進行しだした1990年11月の段階では、
   まだ「この空を飛べたら」に改稿・改題のするつもりはなかった。
 ・ 「鵙は何処へ行った」の「婦長」のセリフはみゆきさん自身の言葉であり、
  小説のテーマに関わる重要なセリフである
  ⇒つまり、「この空を飛べたら」に改稿になっても物語のテーマ的には変わらない

では、なぜ「この空を飛べたら」になったのか?

私は、「鵙は何処へ行った」には主に二つの点で(みゆきさんにとって)問題があったのだと思います。
【問題点1 婦長と刑事】
「鵙は何処へ行った」で最後に登場する「婦長」と「刑事」
この二人には、これまでの物語を総括する役目が負わされています。
特に「婦長」の言葉、みゆきさん自身の思いを代弁していると考えてよいでしょう。
だからこそ、この婦長と刑事の問答は削除されたのだと思います。

みゆきさんが望んだのは、この小説を読んだそれぞれの人間が
人間の孤独と愛ということを考えることであり、
そこに「婦長」の言葉という「答え」は不要もしくは蛇足だと考えたのではないでしょうか?

【問題点2 青木京子と倉橋圭】
先の問題点に密接に関連することですが、「バードランドサーカス」は構成上、大きな弱点を抱えています。
それはそれぞれの短編の主人公達が互いにつながっていることが、物語の軸となっているにもかかわらず、
最終話で他の主人公達となんの関わりもなく、唐突に「婦長」と「刑事」が登場し、
物語を終わらせてしまうことです。

また、町から疎外された存在として、
逆に町の人間を観察する立場の「寒雀」のホームレスの老女を除いて
各編の主人公たちは自分の孤独から抜け出すきっかけを
他者との関わりの中で手に入れていきます。
「COO,COO」の主人公は、「鴉」の主人公たちを万引き犯と誤解していたことに気づくこと
「ポケットの白鳥」の主人公は、「かささぎ橋」の主人公の自殺を止めたこと
「かささぎ橋」の主人公は、「ポケットの白鳥」の主人公に自殺を止められたこと
しかし、この中で「鴉」の青木京子と「チャボを飼ってみな」の倉橋圭は
それぞれの話の中でまだきっかけを見出していません。

だからこそ、単行本「この空を飛べたら」では、
全ての主人公に相互の関わりあいと救いを与えるために

上下2段構成によって、
最初交じることのない青木京子と倉橋圭のそれぞれの行動が
最後の瞬間に交錯することを表現したのだと思います。

みゆきさんが望んでいたのは、ミュージックスクエアでの発言のように

「 「どうせみんなひとりぼっちだから」(中略)そこで止まって欲しくない」

ということであり、

だからこそ、自分自身のメッセージである「婦長」の言葉を敢えて隠し、
代わりに物語の主人公たちの行動で、
人が孤独から抜け出せることの可能性を示したかったのだと思います。

  • 余談 「鵙は何処へ行った」と「吹雪」

「鵙は何処へ行った」の婦長と刑事の言葉をよんで、想起したのは、
この小説の2年前に発表されたアルバム「グッバイガール」の「吹雪」です。

「吹雪」という曲は、みゆきさんの曲の中でも特に解釈に議論をよぶ曲の一つであり、
その解釈の中では、特に「降り積もる白いもの」を「死の灰」と解釈し
「第五福竜丸を題材としたもの」という解釈が流布しているようです。

それを真っ向から否定するような材料があるわけではないのですが、
吹雪の歌詞
「日に日に強まる吹雪は なお強まるかもしれない」
「恐ろしいものの形を ノートに描いてみなさい そこに描けないものが 君たちを殺すだろう」
「数えきれない数の   羽の形をしている あまりにも多過ぎて やがて気にならなくなる」
と「鵙は何処へ行った」の婦長の言葉
「傷つけるつもりさえもなく人を傷つけては片っぱしから忘れてゆく、
 恐ろしいものが確かに、この世の冬には増えてゆくのかもしれません。
 枝は、贄で溢れるでしょう。」
 とには、表現上多くの連関があると思うのです。

私個人としては、「吹雪」の「降り積もる白いものは 羽の形をしている」とは
傷つけるつもりさえもなく人を傷つけては片っぱしから忘れてゆく「鵙」たちが
生きていく中でそこから抜け落ちていく「羽(=日々の無意識に行われる所業)」なのではないかと
思うのです。

ご感想、ご批判、自論 お待ちしております。


この「バードランドサーカス」と「この空を飛べたら」の比較はこれで終了です。
そこで、今回私が掲載した相違点に基づいて別の観点からの考察がありましたら、
ぜひ、お聞かせください。

よろしければ、このページに
「私はこう考える」という形で、掲載してみたいと思っています。
(要 ペンネーム)

また、他にみゆきさんに関するデータや研究を発表してみたいが、
発表する場所が無いという方、
形式の整ったものでしたら(出典情報など)
私のホームページのスペースをお貸しします。
どうぞご相談くださいませ。